2005年11月15日
「わたしの渡世日記」高峰秀子
11月17日号の「週間文春」にこんな記事が載っていた。
「高峰秀子「二億円肖像画寄贈」見事な人生の後始末」(記事 斉藤明美)
海原龍三郎画伯の描いた、高峰秀子さんの肖像画十一点を高峰さんが世田谷美術館に寄贈した。その評価額は二億円を超える・・・と。
私は高峰秀子さんのことを著書でしか知らないが、
さもありなん、この人だったら金額なんて関係なく、自分の死後のことを考えて、海原龍三郎氏から贈られた絵のことのみ心配してこういうことをするだろうな〜と思った。
彼女の著書「わたしの渡世日記」は何度読み返したかわからないぐらいの愛読書だ。
この本には、自分自身の複雑な生い立ち、義理の母との戦いの日々、
歌手東海林太郎との不思議な親子関係、
若き日の黒沢明との出会いと別れ、女優として関わった様々な監督との逸話、
文豪谷崎潤一郎や海原龍三郎との交流、ご主人である松山善三氏のことが
率直に、多分仕事を始めた5歳のころから見つめ続けてきたであろう厳しい目を通して描かれている。
特に映画「細雪」のこいさん役に出演したことから始まった、
谷崎潤一郎一家との関わりを描いた文章は、興味深く読んだ。
谷崎夫人とお嬢さんに導かれて初めて谷崎潤一郎と会った日のことを
高峰さんはこう書いている。
「当時六代目菊五郎とウリ二つと言われることを自他共に許していた
谷崎潤一郎の顔は、さすがに貫禄があって立派だった。
だだし、彼の顔には、天女の如き彼女らとは違って強烈な「人間臭さ」があった。
その臭さも並大抵ではない、ギラギラと脂ぎり、ドロドロと煮えたぎる、
あらゆる煩悩をたたえた紛々たる生臭さがカッと見開いた大鯛のような
彼の目の奥に燃えているのを見て、私は圧倒された」
上からでもなく、下からでもない。
ただまっすぐに対象に向きあおうとする高峰さんの強い意志を感じる。
彼女の文章を一言で表現するなら「潔さ」だと思う。
そして、大画伯梅原龍三郎のことを親しみをこめて「梅ゴジ」と呼んでいた
高峰さんが初めて絵のモデルとなってその絵が完成した時の思いも綴られている。
「当時二十五歳の私は、好むと好まざるとにかかわらず、
人さえ見れば歯をムキ出して愛想をふりまかねがならぬ「人気女優」という立場にいた。(略)
人には見せたくない部分、つまり売り物にはならぬ部分はすべてひっくるめて
心の底に隠しこんでいたつもりだったのに、
カンバスの中の私の表情は明らかにけわしく苛立って今にも泣き出しそうに歪んでいた。
キャメラの前では絶対に見せない、私だけしか知らない本当の私がそこにいた。」
「ルノアールは目で絵を描いたかもしれないが、
海原龍三郎は「愛情」で絵を描いていると、私には思えてならない。
そうでなくて、なぜ、このように人の心の奥底まで写すことができるだろう?」
その絵を、私もいつか見に行こうと思う。
最後の章「骨と皮」で高峰さんは書いている。
「私は「週間朝日」の連載を書くに当たって「ええかっこしい」はやめて、
私の恥のありったけをブチまけようと覚悟を決めた。
思い出すまま、筆の走るままに書き散らした「恥」の数々を読み直してみて・・・
私にはやはりその覚悟は浅く、筆の力も足りなく、
だだ、恥の上ッ面だけ撫でたような気がして不満が残る。
正直に言えば、私の歩んできた渡世の道は、もっと恥多く、貧しく、
そしてみじめだったからである」
私はこの本を読んで、文章はその人自身を表すということを改めて感じた。
真実の出し方、見せ方はいろいろあるだろうが、どうしたってその文章の中には
その人自身が潜んでいるものなんである。
そういう意味では、この著書は彼女自身であると思う。
女優を引退されて、記事によるとめったに外出せず大好きな読書三昧の日々を
送られているようだ。
戦いすんで日が暮れて・・・
彼女の平和で穏やかな日々がこのままずっと続くことを遠く北海道から祈りたいと思う。
わたしの渡世日記〈上〉
わたしの渡世日記〈下〉
細雪 (上)
私の梅原龍三郎
「高峰秀子「二億円肖像画寄贈」見事な人生の後始末」(記事 斉藤明美)
海原龍三郎画伯の描いた、高峰秀子さんの肖像画十一点を高峰さんが世田谷美術館に寄贈した。その評価額は二億円を超える・・・と。
私は高峰秀子さんのことを著書でしか知らないが、
さもありなん、この人だったら金額なんて関係なく、自分の死後のことを考えて、海原龍三郎氏から贈られた絵のことのみ心配してこういうことをするだろうな〜と思った。
彼女の著書「わたしの渡世日記」は何度読み返したかわからないぐらいの愛読書だ。
この本には、自分自身の複雑な生い立ち、義理の母との戦いの日々、
歌手東海林太郎との不思議な親子関係、
若き日の黒沢明との出会いと別れ、女優として関わった様々な監督との逸話、
文豪谷崎潤一郎や海原龍三郎との交流、ご主人である松山善三氏のことが
率直に、多分仕事を始めた5歳のころから見つめ続けてきたであろう厳しい目を通して描かれている。
特に映画「細雪」のこいさん役に出演したことから始まった、
谷崎潤一郎一家との関わりを描いた文章は、興味深く読んだ。
谷崎夫人とお嬢さんに導かれて初めて谷崎潤一郎と会った日のことを
高峰さんはこう書いている。
「当時六代目菊五郎とウリ二つと言われることを自他共に許していた
谷崎潤一郎の顔は、さすがに貫禄があって立派だった。
だだし、彼の顔には、天女の如き彼女らとは違って強烈な「人間臭さ」があった。
その臭さも並大抵ではない、ギラギラと脂ぎり、ドロドロと煮えたぎる、
あらゆる煩悩をたたえた紛々たる生臭さがカッと見開いた大鯛のような
彼の目の奥に燃えているのを見て、私は圧倒された」
上からでもなく、下からでもない。
ただまっすぐに対象に向きあおうとする高峰さんの強い意志を感じる。
彼女の文章を一言で表現するなら「潔さ」だと思う。
そして、大画伯梅原龍三郎のことを親しみをこめて「梅ゴジ」と呼んでいた
高峰さんが初めて絵のモデルとなってその絵が完成した時の思いも綴られている。
「当時二十五歳の私は、好むと好まざるとにかかわらず、
人さえ見れば歯をムキ出して愛想をふりまかねがならぬ「人気女優」という立場にいた。(略)
人には見せたくない部分、つまり売り物にはならぬ部分はすべてひっくるめて
心の底に隠しこんでいたつもりだったのに、
カンバスの中の私の表情は明らかにけわしく苛立って今にも泣き出しそうに歪んでいた。
キャメラの前では絶対に見せない、私だけしか知らない本当の私がそこにいた。」
「ルノアールは目で絵を描いたかもしれないが、
海原龍三郎は「愛情」で絵を描いていると、私には思えてならない。
そうでなくて、なぜ、このように人の心の奥底まで写すことができるだろう?」
その絵を、私もいつか見に行こうと思う。
最後の章「骨と皮」で高峰さんは書いている。
「私は「週間朝日」の連載を書くに当たって「ええかっこしい」はやめて、
私の恥のありったけをブチまけようと覚悟を決めた。
思い出すまま、筆の走るままに書き散らした「恥」の数々を読み直してみて・・・
私にはやはりその覚悟は浅く、筆の力も足りなく、
だだ、恥の上ッ面だけ撫でたような気がして不満が残る。
正直に言えば、私の歩んできた渡世の道は、もっと恥多く、貧しく、
そしてみじめだったからである」
私はこの本を読んで、文章はその人自身を表すということを改めて感じた。
真実の出し方、見せ方はいろいろあるだろうが、どうしたってその文章の中には
その人自身が潜んでいるものなんである。
そういう意味では、この著書は彼女自身であると思う。
女優を引退されて、記事によるとめったに外出せず大好きな読書三昧の日々を
送られているようだ。
戦いすんで日が暮れて・・・
彼女の平和で穏やかな日々がこのままずっと続くことを遠く北海道から祈りたいと思う。




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この記事へのコメント
1. Posted by 南平岸 2013年10月20日 23:44

《私は「週刊朝日」の連載を書くに当たって「ええカッコしい」はやめて、私の恥のありったけをブチまけようと覚悟を決めた》(骨と皮)との言葉通り、華やかな映画女優による「自伝」とは思えない出色の作品です。
例えば、《人間、生まれてから死ぬまで、・・・単なるウンコ製造機で終わる人はいないだろう》(勲章)なんて、まさに有言実行。
率直で謙虚、自分に正直で、さっぱりとした文体は、子役時代から50歳まで第一線の映画女優だった女性のそれとは似ても似つかず、「名エッセイストが女優を兼務していたのでは?」と錯覚するほどです。
そして、高峰秀子の「文」と「人」が本物である証拠は、文豪や画家、映画監督など、一流の人物との交遊であり、人間洞察力の鋭い巨匠たちから彼女が可愛いがられていた事実が示しています。
小津安二郎然り、谷崎潤一郎然り、志賀直哉、梅原龍三郎、木下恵介、川口松太郎、有吉佐和子、・・・等々。
下巻の冒頭、「黄色いアメリカ人」「赤いスタジオ」等の章は、終戦時に21歳だった職業婦人の「ニッポン日記」のようにも読め、日本映画史におけるアーカイブズ資料としても貴重。
それにしても、「細雪」「宗方姉妹」「カルメン故郷に帰る」「カルメン純情す」「浮雲」・・・など、彼女(20代後半)のスチール写真の美しさ。平成の銀座や青山を闊歩する女性たちに全然負けていないことに驚きです。
2. Posted by きこり→南平岸さん 2013年10月21日 20:39
コメントありがとうございます。
>「名エッセイストが女優を兼務していたのでは?」と錯覚するほどです。
本当にそうですよね。
読めば読むほど味わいがある。
シンプルでわかりやすい文体。
客観性を保ちながら、人間性が伝わってくる。
文章の根幹にある「潔さ」は、まさに高峰さんそのものように思います。
幼い頃から大人たちに囲まれて、その賢さと鋭さで「ホンモノ」と「ニセモノ」を見極める確かな目を培ってきた高峰さんですが、彼女こそが「ホンモノ」でしたよね。
なんだか、また高峰さんの著書を読み返してみたくなりました。
>「名エッセイストが女優を兼務していたのでは?」と錯覚するほどです。
本当にそうですよね。
読めば読むほど味わいがある。
シンプルでわかりやすい文体。
客観性を保ちながら、人間性が伝わってくる。
文章の根幹にある「潔さ」は、まさに高峰さんそのものように思います。
幼い頃から大人たちに囲まれて、その賢さと鋭さで「ホンモノ」と「ニセモノ」を見極める確かな目を培ってきた高峰さんですが、彼女こそが「ホンモノ」でしたよね。
なんだか、また高峰さんの著書を読み返してみたくなりました。